The Sleeping Dogs

〜美しきクラッシックの小品に寄せて〜
AUTHOR  ももさん

1. 〜亜麻色の乙女〜

「何を飲んでいらっしゃるんですか、マスタング大佐」
ロイは軍施設のプライベート・バーでちょっと早い食前酒を飲んでいる時にふいに背後から声をかけられた。
「…ホークアイ中尉」
ロイの視線が彼女を捉えたところでリザはおもむろに敬礼する。
「執務室にも資料室にもいらっしゃらないから、もう外だと思いましたけど」
そう言うリザの腕には黒いコートがきれいに畳んで下げられていた。
ここまで追いかけてきたのか?ロイは微かに笑う。コートを羽織らずに車で帰ったことも何度もあるというのに。ロイの掌の中の冷たいグラスは手のひらで温められ薄く立ち上る霧をあたりに振りまいていた。匂いで分かると思うが…。
「甘い夢をな、味わっていた」
「ウィスキーが、甘い?おかしなことをおっしゃる。飲み過ぎですよ、まだ夕方なのに」
「苦い、辛いと称されるが、こいつは糖質を含んでいるから体内で甘みを帯びる。君が机の中に隠している缶に入ったドロップのようにね。お菓子の錬金術師が居たらきっといくつものボンボンに変えているだろう」
「ドロップにはアルコールのように中毒性はありませんが」
「そうかな?君は私が気が付けばいつもドロップを口にして舌で転がして舐めている。その聞こえない口の中の擦れる音がね、私をそそる」
…口答えが、止んだ。ぷっ
「では、デートの際はコートをお忘れ無く。今晩は冷えるそうですから」
厚みのあるコートをどさりとロイに渡してリザはきびすを返す。
その振り返り際の無防備なリザの左手をロイは右手でぐっと掴んだ。
「一杯やっていけ」
「…それは上官命令ですか」
「そうだ」
ロイが笑うと冷たい姫君の氷が溶けたようにリザの腕が弛緩した。そのまま無言でリザはロイの隣のスツールに座る。ロイはコートをバーテンに預けると、バーテンは空のグラスにミストを入れてロイに渡す。ロイは自分の飲んでいたボトルから自分のとリザのグラスへウィスキーを注いだ。とたんにグラスから霧が立ち上る。
グラスを両手で抱えるリザの手は温かいんだろうか?
「目が責めてる」
「責めてません」
「俺はアル中か?」
「いいえ、エド中です」
今度こそぶっとロイは吹き出した。冷たい貌の女は案外面白い。つられてリザも笑い出す。
「酒が切れると溜まらなく不安になる」
「他で代用できませんか?」
「女とか?」
「…任務とか」
それが、呆れたという響きを持っていないのがロイには不思議というか理解不能というか。
これが男の反応ならよく分かる。ロイは同志とも言えるヒューズ中佐以外の部下達に弱気なところを見せたことは一度もないが、この女の前ではぶざまに泣いたり、本音をさらけ出せそうな気がした。だからどこへ行くにも副官として供を命じているわけだが。よくそういうことは男同士の友情で生まれる感情だとロイも理解しているのに、どうして私はこの女をそばに置いておくの
か…?
「任務で憂さ晴らしか。毎日、ひと月ごとに年度が変わるたび、目的に進んでいると確信しているのに?」
「大佐のお考えになっていることは、とても理想が高いですから」
「実現は無理かもしれないと言うことかね?」
「それが本当に野心だけだったら…私も、気が楽なのですが…」
冷たい鷹の瞳。それが一瞬、霧に揺らめいてロイの記憶をたぐり寄せた…。

…ロイがリザと出会う7年前、リザは射撃の腕が軍の中でもトップクラスという噂が駆け抜けていた。笑わん殿下、クールな殺し屋、総統の親衛隊員に女性でながら初めて昇格するのではないかと言われていた。
ある日、射撃訓練場にリザが居ることを知ったロイはリザが射撃練習をやり終わるのを待っていた。銃撃が止んでリザが耳からズラしたヘッドフォンの隙間をついて横から声をかける。
「よう!リザ・ホークアイ曹長だね。私はロイだ」
「マスタング少佐でいらっしゃいますね」
上着を脱いでタートルネックの黒いシャツを身につけたリザは長い銃身のライフルを左で抱えて右手で敬礼した。
「始めまして、だったと思うが。軍人の名前と階級は全部覚えているのか」
「はい。少し、調査部にもおりましたので」
「そんなに射撃の腕を磨いてどうする?戦地送りになるだけだぞ」
「そうなったら本望です」
頭からヘッドフォンを外すと髪がばさりと揺れて、亜麻色の瞳が鋭い鷹を思わせた。
「そんなに死に急ぐなよ、私より若いだろ…21か」
「少佐だってまだ23です」
「錬金術の使い手だからね。平和な時代で本来ならこんな地位につけていないよ」
「存じています。今度派遣されるのですよね? 私もイシュバールに連れて行って頂けませんか?」
「…は…?」
イシュバール殲滅作戦に連れていけだと?どういう気まぐれだ。しかし顔色一つ変えずにリザは続ける。
「腕には、誰よりも自信があります。黒髪…オリエンタルな雰囲気で素敵ですね、マスタング少佐。あなたの野心はきっとこの軍の今の体勢を壊してくれる、そう信じているから」
本心を一撃で見抜かれた…!なんだ、この女は?
返事は曖昧なままにしてロイはその場を立ち去る。今と変わらない冷徹な瞳が印象的だった。

その冷たい瞳の理由はリザの軍籍を調べている時に分かった。
リザの両親は政情不安な内乱に巻き込まれ軍が介入した際、多数の市民と共に犠牲になっていた。その頃リザは15才。翌年、金のかからない軍の士官学校に入学。トップの成績で順調に曹長まで昇進。
…嫌っている軍に入って組織に入り込み根底から覆そうっていう魂胆なのか…?
だが彼女のキャリアでは大佐昇格まで定年まで待っても無理だろう。
調査部一筋のヒューズに頼んで入ったカビくさい人事院の書庫でロイはリザの真意を探りかねていた。しかし国家錬金術師がイシュバールへ派兵される時になって部下を何名か選んでよろしいと言われた時に熟慮の上でリザを連れて行った。身の回りの小姓は男性でも勤まるが、銃の腕が立つことと、何より本人が再度打診してきた時に請け合う覚悟を決めたのだった。ロイの両親も既に他界していたというのも同じ境遇として親近感を覚えたからかも知れない。…軍隊の外に、帰る家も無し…か。

果たして地獄のような戦場で戦いを終えて、宿舎に帰って泥のように眠る毎日にリザの存在は女性と言うことを省いてもロイにとっては大きかった。窮屈な軍服に身を包んでいるが紛れもなく、女。よく彼女を知らない頃、戦闘のあとの興奮状態で抱きたいという欲求が涌いたことがある。人間いつまでもストイックに戦争ばかりしていられるわけじゃない。戦士も無垢な人々をも焔でなぎ払う日々に精神状態が限界点に達すると狂いだして女を犯したくなる。戦地はそんな男達のささくれだった心で満たされていた。
その日ロイは従軍ではないボランティアの医師夫婦を殺害せよという命令を受けていた。
敵とみなされたイシュバール人は戦士も女も子供もみんな焔で跡形もなく吹き飛ばした。
だが、医師夫婦はリゼンブールという片田舎の出身で敵の民族ではない。敵も味方も区別無く負傷したものの看護に当たるという姿勢はロイも立派だと思ったが、なにより今日助けられた命が明日には自分たち軍人に刃を向けるのだ。命令を拒むことは造反に値する。…苦しかった…。
同行にはリザを呼んだ。粗末な作戦室で行き先を告げるとロイが治療をして貰うためではないのはリザにも分かっただろう。その目的も。自分が何をしようとしているのか、忸怩たる思いがドアに向かって歩いている時に稲妻のように首の後を打ち、ロイの頭が真っ白になった。
瞬間、振り返って後ろを歩くリザの腕を掴んで粗末なデスクに押し倒していた。うぉぉぉぉ…と叫んでいたかも知れない。仰向けのリザの両手を押さえつけて驚く顔の彼女の唇を無理矢理奪った。抵抗されたのか、従順だったのかよく覚えていない。ただ、軍服の上着を両手で引きちぎりボタンがはじけ飛んでいつも着用している滑らかな身体の線に沿ったタートルネックが目に飛び込んで、あとはどうにでもなれ…!と腹から胸元までたくし上げて肌に唇を寄せた時に。
「…私が撃ちましょうか、少佐…」
と、リザはロイの耳元で喘いだのだった…。

…目の前のウィスキーのグラスに水滴がついている。
今日はイシュバールの夢を見ないですみそうだ…。私が殺した医師夫婦の。
そして彼女のあのひと言が決定的にロイとリザをつがいの夫婦のように精神的に重ね合わせ、そして肉体的には決定的に離したことを。ロイもリザもお互いに知っていた。
リザが『私が撃つ』とロイに告げたひと言で医師夫婦殺害はロイにとって自分がしなければならない部下に対する責任を伴う『義務』となった。だから私が実行できたことを君は、知っているのか?

リザは、苦いわ…と一口飲んだだけでウィスキーの中身をロイのグラスにそのままあけていた。前を向いて並んで座る、肩が触れあうような距離感が我々にはちょうどいい。
「なぁ、これからも私についてくるか?」
「プロポーズの言葉みたいですね」
今日のリザはさっきの甘い夢の話しのせいか口調が柔らかい。いつも、そうでいてくれていいんだがな…。
「君の夢は私がすべて飲み込んだ。だから、安心してくれていい」
「分かっています、大佐」


2 .〜エリーゼのために〜

アメストリス国セントラルに本拠地を構える軍司令部の朝は早い。
朝日が昇るのと同じぐらい、ほとんど静謐な建物の中で低くメロディーを奏でるようにタイプライターの音が廊下を低く這っている。規則正しく正確に打ち続けられるその指先が、拳銃の引き金も躊躇無く引く女性のものであるとは、彼女を知らない者には想像しがたいかもしれない。
リザ・ホークアイ中尉はロイ・マスタング大佐の執務室で報告書を作成していた。
時折朝日の差す窓の向こうを鳥が横切るとリザは顔を上げて木々の間に目を向ける。
夕べの連続爆弾魔の捕物帖は夜中の2時までかかった。ロイ・マスタング大佐が執務室にやってくるのは、たぶん10時…少し前。リザの報告書に目を通したあとリゼンブール行きの列車に乗る手配になっている。…ぷっ…リザの唇がほころぶ。

キング・ブラッドレイ大総統 殿  『報告書』
セントラル市内で発生した連続爆弾事件はいくつかの市にまたがって犯行を起こしていると考えられたため爆弾魔の追求は軍に委ねられた。「火」といえば焔の錬金術師ロイ・マスタングだろうという上層部の温かい配慮で晩秋の深夜、大佐のチームは倉庫の張り込みを命ぜられた。周到な包囲網により運河沿いの倉庫群に追いつめられた犯人はついにその正体を現し…

…「マスタング大佐、自らお出ましご苦労様です!」
ハボック少尉とブレダ少尉が脚を揃えてロイに敬礼する。
「…ハボック少尉。なぜ笑っているのかね」
「あ、いや。火のないところに煙はたたずって言うじゃないですか。爆弾なら楽ですけど自分の手を血に染めない卑劣な手だ」
「私の錬金術も空気爆弾みたいなものだよ、原理は。卑劣かね」
あ…とハボックはバツの悪い顔をする。
「犯罪と軍務は違います!」
ロイは苦笑しながら
「叱ったわけではないよ、ハボック少尉。人から見たら大差がないってことさ、犯罪も軍務も。覚えておきたまえ」
「はい。しかし…普通の人間なんですかね、犯人」
「万国ビックリショーか?」
「世紀末なんですかねぇ〜」
ハボックがしみじみと煙草をくわえたまま言う。
車が停車する音がして降り立ったリザが肩にライフルを背負って近づいてくる。
「これ…ヒューズ中佐からです。軍が見つけた声明文だそうですけど…」
ロイとハボックはリザが差し出した紙を覗き込む。
「『エリーゼのために』…か」
ただひと言、血文字のような赤い筆跡でそれだけが書かれている。
「エリーゼって女性の名前ですよね。モテない男が横恋慕して彼女とゆかりのある男の仕事場や逢わせてくれない両親の家を焼いているとか?」とハボックが言う。
「火災現場は軍の化学研究施設や軍人出入りの酒場だろう。犯人にとっては誰か軍関係者かもしれないな、標的は。そもそもエリーゼなんて女性、セントラルにごまんと居るだろ。はっはっは」
と、ロイは涼しい顔で笑い出す。
「俺は知りませんよ〜付き合ったことあるんすか?…大佐」
ロイはう〜〜む、と無言で考え込む。
「…ある…」
「だははは〜〜!だったらそりゃ、この一連の放火は大佐のせいですよ」
「待て!決めつけるな、ハボック!」
あーあーやれやれ、大佐のせいですか…と、部下達は帰り支度を始めた。

…その時。ドーーーーン!!!

軍の倉庫のひとつが爆発炎上してキーンと耳鳴りが少しの間残るほどの衝撃があった。
「…マジ、やばいっすね…」
ぽろりとハボックのくわえ煙草が路上に落ちた。
「で、出たぁ〜〜!!!」ブレダが叫ぶ。
「散開しろ!!武器は爆弾か!?なんだあの破壊力は。大砲並みの戦車か!?」
ロイはそう叫びながら部下達を手で右へ左へ散開させる。消防車を呼べ!と誰かが叫んでいた。リザはすっとロイの背後に銃を構えて立つ。気配でロイにはすぐ分かるのだ。
「ホークアイ中尉!」
「はい!」
「私についてこい!」
ロイとリザは小走りで火災現場に向かう。
「大佐」
「なんだ」
「お心当たりは?」
「うぐ…」
どの女だろう?娼館の女にエリーゼという女性は何人か居たし、そもそもエリザベスという名前自体が「HELLO ELIZABETH !」「HELLO ROY !」と小学生の国語の教科書に載るほどポピュラーなのだ。ホークアイ中尉のリザという愛称だってエリザベスの略称と言えるし。見舞う客も居ないのに買った花屋の娘、劇場でナンパした踊り子、日曜日に必ず立ち寄る定食屋の10代のホール係…、みんなベスとかエリーゼと呼ばれていた。何という紛らわしい…!って。
「私…知っています」
ロイを横目でちらりと見ながらリザが言う。
「は?」とロイは足を止める。
「犯人は9割9分ユマ・ボマーだとヒューズ中佐がおっしゃっていました。高学歴でありながら化学物質文明を否定した男。自然に帰ろうと砂漠地帯で隠遁生活をしていたのですが、軍の化学研究施設を敵視して爆弾を送りつけてきたんです」
「あ…。女じゃなくて?あっ、いや…そいつとエリーゼと私に何の関係がある?」
「部屋とYシャツと私です」キリリとリザの目線がロイを突き刺す。
「はぁ!!??」

リザの『報告書』続き…
24日の明け方、秘密裏に調査中の爆弾魔ボマーのアジトと見なされたアパートに特高が踏み込むと暴行を受けたエリーゼという女性がベッドの上で苦しんでいた。事情を聞くと部屋に一緒に住んでいる男性が爆弾魔だと気づき警察に連絡しようとしたところ逆上して監禁に及んだと言うことだった。証拠品などを押収していた時、テーブルの上に軍人用の支給品の白いYシャツが血であちこち汚れたままの状態で無造作に置かれていた。襟元のネームには『ロイ・マスタング』報告を聞いたヒューズ中佐が他言無用の処置をし、それとともに『エリーゼのために』というメモを持ち去ったのだった。

「げげっ」
「その部屋で不義密通を重ねたんでしょうか、大佐」
人妻はたぶん手出ししたことはないはず。最近…シャツを脱いだところと言えば。
「あーーーー!!思い出した。そのエリーゼはやっぱり娼館で出会った女中係だよ」
「娼婦ではなくて?」
「彼女は接客はしないから。酒を運んでいる時に酔っぱらいに絡まれているところを助けたんだがナイフを持っていてね。さすがに建物の中で焔を出すわけにもいかず…」
「やはり、無能だったのですね」
「…無能言うな。上着を置いてトイレに出たところだったのでYシャツをあちこち切られてしまったんだが、なんとか抜いた拳銃が一発当たったのでおとなしくなって、やれやれだったよ。その後エリーゼが持ち帰って縫ってきますというものだから渡したんだが…そうか、それを見て軍に反感を抱いている爆弾狂信者が私に恨みを向けたのか」
「どうなさいます?」
「好都合じゃないか、望むところだ!!」
「…」
楽観的な大佐にひと言もないリザだった…。

…「そうして付近を深夜2時まで捜索したが爆弾魔の姿はとうとう見つからなかった。そこでセントラル市内の人的及び歴史的建物への爆弾テロによる影響を考えたマスタング大佐は田舎町、リゼンブールへ静養するというニセの情報を流し爆弾魔ユマ・ボマーをおびき寄せる作戦を開始した」

リザが出勤してきたロイのデスク前で粛々と報告書を読み上げると室内から部下達の失笑が起こった。
「以上です」
「…いつもながら簡潔で見事だ。大総統に報告しておいてくれたまえ」
そう言いながらロイはリザが差し出した書類にサインする。
「大佐、本当にひとりで行かれるんですか?」とハボックが尋ねる。
「うん、そう思ったんだが、中央図書館でぶらぶらしてる鋼のを誘うことにした」
「エドワード君をですか?弟は?」
「爆弾で吹っ飛んだらいけないんで別便で来るように指示してある」
「なんか、優しい配慮じゃないですか〜〜里帰りですか、いいなぁ」
「お前らは全員年末まで休暇無し!」
「ええ〜〜!?なんでですかっ大佐〜〜!!」
「しっかり職務に励めよ〜はっはっは」
…バタン。

賑やかなロイが居なくなってとたんに執務室が静かになる。
「ホークアイ中尉は行かないんですか?」
「地元の警察に連絡してあるし前に一度行っているからいいわ。いいところよ、エドワード君が育ったところは。可愛い幼馴染みの女の子が住んでいるの」
「大佐の目に毒です」
くう〜やっぱりそんな下心が、などとブレダが笑っていた。
「そうね。だってその子の両親は大佐が7年前、軍の命令で粛正した人たちなんですもの」
「…え?」一瞬で室内の空気が固まる。
「償いをエドワード君にすることで自分を慰めているような気がして…」
「甘い、と言いたいんですか?ホークアイ中尉」とハボックが尋ねる。
「ええ」
「中尉、男勝りだけど男心はまだまだからきし分かっちゃいないなぁ〜」
からかうようにハボックが言う。
「あれはね、恋ですよ」
「…恋?」

あの人の夢に乗っているのは自分だけだと思っていた。
ふいに鳴き声をあげて飛び立った窓の外のカラスは大佐のような気がする。日射しを浴びて背中が金色に輝いていた。その背中に乗る金色の小鳥は。きっと私ではなく、今、大佐の心を占めている鋼の錬金術師エドワード・エルリック少佐なのだとリザは思った。

3.〜トロイメライ〜

「じゃあ兄さん、リゼンブールでね〜♪」
「おう!マリア・ロス少尉がついててくれるから安心して来いよ」
列車の窓からエドがホームにいるアルとマリアに声をかける。ロイはエドの向かいに座って腕組みをしている。
「あの…本当に大佐とエドワードさんふたりきりで向かわれるんですか?護衛も無しで」
マリアが心配そうにロイに尋ねると「ふたりとも戦闘系国家錬金術師だぞ、心配するなロス少尉」とロイが陽気に応える。
「なんか知らねぇけど爆弾魔をおびき寄せるっつー話しなんだろ。しかもこの車両、全部軍で貸しきったわけだし」
「エドワードさん、私達が追いつくまで無理しないでくださいね」
そう言いながらマリアは駅弁と飲み物をエドに手渡すと「ありがとう」とエドがはにかんだ。それを横目でじぃぃと見ながら「あれ…私には?ロス少尉」「はい、大佐♪」とアルがロイに駅弁を手渡す。「…ありがとう、アルフォンス君…」
「いっそ列車ごと爆弾魔を爆破しちまおうかな〜わはははっ」(一同爆笑)

そんなわざとらしくも和気藹々の出発を柱の影から見つめているひとりの男がいた。

…エドとロイは弁当を食べ終わって延々と続く田舎の景色を眺めていた。セントラル市街を抜けるとすぐに田園風景が広がってくる。ロイは窓を開けて肘を列車の外に出して髪が風に吹かれるままにするがなんとも言えず心地いい。そんな感慨に浸っている時、ロイはエドのふてぶてしい目線が自分を捉えているのに気づいた。「何だ?」
「生身の人間と旅するのって、なんか、変」
「アルのことか?」
「いつも一緒だったから。鎧の中からあいつのくぐもった声が聞こえてきて図体も俺よりデカイからなんか安心って感じで。砂漠で俺が死にそうな目にあっても、アルは腹が減ったとか、喉が渇いたとか言うこともないし、心配しなくていいから楽なんだ」
「私は、しょっちゅう喉が渇いただの、腹が減ったという君の要求に神経がすり減りそうだよ」
「いいじゃないか、俺より国家錬金術師でいる年数も長いし稼ぎもイイんだろ〜〜」
「野郎に使う金はない」
割り勘だからな、とロイは釘を刺す。「ちぇ」

〜「次の停車駅はトロイメライ。停車時間は1時間ほどです」〜

車掌のアナウンスが流れてからほどなくして小さな駅に着いた。
「降りてみようか」
「ん?私もか?」
「あそこの花屋にトロイメライっていう薔薇があるんだ」
エドは駅からまっすぐ伸びた街道を指さす。
「花…鋼のが…花?」
「なんでそんな変な顔するんだよ。見ていったら?軍隊で行動していたら途中下車なんてすること無いだろ?行こうぜ!なんか食料も買いたいし」
「また食い物か。さっき食べただろ」
「列車に乗ってるだけで腹が減るんだよね〜若いから、俺」
さっさとエドは降り口へ向かうのでロイはつられて席を立った。

「ほら、これ」
花屋の店先に、オレンジがかった赤い薔薇がアルミのバケツに無造作に投げ込まれていた。
「ここら辺でだけ栽培されているんだって」
「バレエする少女の、チュチュの中の膨らみみたいだな」
「…大佐、エロいよ。この薔薇はね、母さんが好きだったんだ」
エドは、お願いしまーす!と店の奥に叫んだ。
ひげモジャの親父が出てきて薔薇をむんずと10本ほど掴み出す。
丈を揃えて花束にする時に、茎をパチンとハサミで切ると水しぶきが跳ね上がって青い匂いがロイの鼻腔を捉えた。やっぱり匂い立つ乙女のような薔薇だとロイは思う。水もたっぷり綿に含ませて長時間の持ち運びに備えてもらった。

肉屋でコロッケやポテトサラダのサンドイッチを買うついでにロイはビールを2本買う。「一本飲ませてくれるの?」「お前は未成年!私のだ」「ケチ」「ケチとは何だ。買ってやったろ」「へいへい、感謝します」「ひと言多いんだよ」「へいへいへい」「…」ぶははは〜!

列車は田園風景をひた走る。
ガツガツとサンドイッチやらコロッケにかぶりつくエドの向かいでロイはビールを瓶のまま飲む。なんという開放感。こんなゆったりとした旅をしたのは軍隊に入る前だったろうか。いや、記憶にない。記憶にないのに心地いいと感じるのは何故だろう。ロイは町から町へ賢者の石を求めてさまよい歩くエド達の、長い長い旅の時間を想っていた。
「ひ〜腹一杯」
「また寝るのか?牛になるぞ」
「大佐ってさ、誰かにプロポーズしたことないの?」
「…あったら独身ではいられまい」
「あの薔薇さ、親父が母さんにプロポーズする時に贈った花なんだって。母さん20才だった。なのにあんなひげモジャのおっさんが好きになるなんて、女ってわかんねー」
「鋼のは恋したことあるのか?」
「恋?してる暇ないよ。大佐と違って暇じゃないんで」
「いちいちイヤミを言うな。一緒に居るだけで話が尽きなくて、笑ってばかりいる。そういうのが恋なんじゃないのかな」
ロイはアルコールのせいか滑らかに答えた。
「ふうん」
エドは、俺たちも何だかんだ言いながらも話しはしているし笑いあってる。じゃあこれって、恋なのか?とは訊けない気がした。大佐は年齢も倍ほど違う大人の男だけど、完璧に出来上がった硬い大人達とは違う気がする。29才なんて気が遠くなるような先のこと、想像できないけど、人間の「核」みたいなものが他の人と違ってる。選ばれし国家錬金術師たる自負心は俺の中にもやはりあるから。それは弱い人々への奉仕というような義務感もあったりするんじゃないのかな?イシュバール殲滅作戦に投入されて地獄を見た大佐だからこそ持つことの出来る…愛
情…とか。わかんねー。大佐も。エドは苦笑する。
「何だ?黙って」
その視線が普段と違って、優しくて…熱いんですが…大佐…。
「考えすぎた。ちょっと、寝る」
エドはふんっと腕を組んで目を閉じてロイの眼差しを遮った。ロイはそんなエドを眺める。
華奢な小さい身体のどこに戦闘時のエネルギーが潜んでいるのか分からんな…。
女は抱くもので、恋をしたことはない。話しをして楽しかったためしがそもそも無いし、普段の私は少々のことでは笑わない。そうすると相当私は女にとって嫌なヤツなのか?…。初めて恋をした相手が男で、しかも15才の少年でというのは私の精神状態が狂っているんだろうか。出会った時は12才だった。いや、これは恋ではあるまい。しいて言うなら遥かな記憶への「執着」の一種なのかもしれないが。ロイは窓の外の真っ赤な空に、イシュバールに自分が放った焔を思い描いていた。

…「着いたぞ。起きろ、鋼の」
エドが目を醒ますとリゼンブールに到着していた。12時間の旅だった。ロイは下車する乗客に目を走らせる。全部で10人ほどが改札へ向かっていた。
列車の中ではさすがに他の乗客のことを考えて手を出さなかったが、さて。
近くにいるか?来ているんだろう?爆弾魔・ボマー!

ロイは、駅を出たエドとロイを確かに監視している男の視線を背後に感じていた。


4 .〜子犬のワルツ〜

「よぉ!元気だったか」
「エド…!!いやーん、元気だった?」
駆け寄るエドの後のロイに気づいてウィンリィは小さく礼をする。
「元気だった?ね、アルはどうしたの」
「明日着く列車で来るよ」
「爆弾魔に追われているって本当なんですか?」とウィンリィはロイに訊く。
「たぶん変装して一緒の列車に乗ったようだ。私は手配してある退役軍人のマダムが開いている小さな宿に2.3日本当の休暇だと思って泊まるから、ここで」
「あ…そうなんだ」ちらりとエドはロイを見上げる。ロイはリザから手渡された書類束を覗きながら「ロクサーヌ婦人の農家を改造した民宿だと言っていたが」
「馬車を頼んでおいたの、私達は途中で降りますけどそれに乗って行ってください」
「すまんな」
エドはあれやこれやと世話をやくウィンリィにいろいろと答える。
ピナコの家の前でエドとウィンリィは降りて、馬車はロイを乗せたままさらに奧へ進んでいった。

翌日。
ウィンリィは毎朝日課の両親の墓参りに向かう。庭でつみ取った花を持つと玄関からデンが寄り添うようについてくる。10月のリゼンブールは早くも朝霜が降り始めるので赤いジャケットを羽織って丘を越えていく。…『お早う、パパ、ママ。昨日はエドが帰ってきたのよ、黒髪で目つきの悪いマスタング大佐も一緒でした。あの人を見ると胸がドキドキしてしまうの、どうしてなのかしら?分かりますか、ママにはどうしてだか…』
ウィンリィが丘を登り切った時、青い軍服と黒髪が目に入った。ドキンと心臓が鳴る。
その人は両親の墓前にひざまずいて祈りを捧げていた。…どうして?
両親の遺骨が届けられた時、大人達の誰かが言った「軍に殺されたんだってよ!」
…死神は、この人なの?
ウィンリィは白い百合のそばに持ってきた小さな花束を並べて置く。
「言おうか、言うまいかずいぶん迷ったんだが…」
「なら、言わないでください」
「君が誰かを恨みたいと思った時に顔が浮かばなければ、困るだろうと思ってね」
「イシュバールに、居たんですね?」
「ああ、君の両親を撃ったのは私だ」
「ずるい…そんなこと告白されたって私の心は軽くはなりません。自分だけ、ずるい」
ああ、そうか…と、ロイは思う。言ってしまえば私の荷が下りるけれど、彼女の荷は降りるわけじゃないのか。まだまだ人間が出来ていないな…私は。
「私、誰も責めたくないんです。人助けをしたいと思った両親がそれをしてはいけないと言われて、はいそうですかなんて回れ右をしたら生きる意味が無くなってしまう。だから誇りに思っているし、ただ戦場で仕事をやり遂げて倒れただけだと思っていたいんです」
「本当に、すまなかった」と、ロイはウィンリィに頭を下げる。
「二度とここには来ないで。もう、自由になってください」
自由?私の自由は軍隊の中には…無いんだよ、お嬢さん。ロイは立ち去る。
言いになど来てくれなければ良かったのに…。ウィンリィはしばらくデンを撫でて想いに沈んだ。

夕方にアル達が到着した。マリア・ロス中尉は何かあったらすぐ連絡をとエドに伝えて宿へ向かう。
「お帰りなさ〜い!アル〜〜」
「ウィンリィ!兄さんも元気だった〜?」
「たった二日じゃないか。心配性だな〜アルは」
「家に入って。アルの好きなハンバーグよ」
「わあい♪」
食卓は賑やかな食事が並んでいた。エドとアルとウィンリィはピナコの手料理を目で舌で思い思いに味わう。
「で、爆弾魔は?どうなったの、兄さん」
「来ねぇな」と言いながらエドは口いっぱいに肉をほおばる。
「大佐もまだ死んでないみたい」と、ウィンリィ。
「え…ウィンリィ…それってなんか冷たいね」
「いいのよ、あんな人。巻き込まれたら馬鹿馬鹿しいわ、エドもアルも離れててね!」
ぷりぷりとしたウィンリィを見て女の子って難しいと思うアルだった。
「そだな〜」
「兄さんっ」
「明日何して遊ぶ?アル。裏の山とか渓谷の探検でもしようか」
「ね〜大佐のことはいいの〜?」
「ドッカーンと爆弾が爆発したら何かあったってすぐ分かる。山の上なんか村全体が見渡せてちょうどいいじゃないか〜♪」
エドの高笑いが外のデンのところまで響き渡ってぴくりと耳が動いた。

次の日、エドとアルとウィンリィは丘を越えて山を散策する。
「あれ〜ここってこんなに道狭かったっけ?」と、アルが枝を避けながら歩く。
「そりゃお前が大きくなったからだよ」
「兄さん感じない?あ、そっか、大きくなってないから・・・ふふふ」
「なんだとーコラぁー!!誰が豆粒ドチビだぁ〜〜!!」
ウィンリィとアルが笑い出す。
「あんた達ふたりともちっちゃくって子犬みたいだったわよ」
「そうだったね〜いつも夕方までこの辺り駆け回ってた」
「枯れ草とか秋は棘のある実が落ちて服にくっついて痛かったっけ」
水の流れている沢で一休みする。「なんか木の実がなってるかな?ちょっと上に昇ってくる。待ってて」とエドは駆け出していた。

「あーあ、行っちゃった。せっかちなのは相変わらずだ。大丈夫かなぁ」
「アルは昔からそんなふうに優しかった」
ウィンリィとアルは石の上に並んで座った。
「兄さんだって本当は優しいんだよ」
「分かってるわよ。そうでなきゃお母さんを呼び戻すなんてこと出来ないはずだもの」
「優しいから、そういうことが出来るってこと?」
「うん…上手く言えないんだけど、私の両親がイシュバールで殺されたでしょ?敵も味方も無しに負傷した人を助けて命を繋いだ。だけどそれをこの国の軍隊は許してくれなかった。頭では理解できるの、私達、アメストリスの国民なんだもの。でも心は張り裂けそうよ、アル…。それが知っている人で幼馴染が恩を受けている人だとしたら…」
「泣かないで、ウィンリィ。それ、誰なの?」
「マスタング大佐よ。7年前のこんな天気のいい夕食時に。診療が終わってひとときの安らぎが戦場に満ちていた頃、死神がやって来たんだわ…こんな風に扉を叩いて…」
トントントン。
「わぁ〜〜!!」
アルが冷や汗を流しているとひょいとロイが木陰から顔を出した。
「大佐っ」アルが慌ててウィンリィと大佐をきょろきょろと見比べる。
「何だ?私の顔に何かついているかね」
「いいえ。エドならその沢に沿って昇っていきました。木の実を取るとか言って…」
「そうか。アルフォンス君、ここから君たちの母親の墓はどの方角だ?」
「あっちです、大佐」
「ありがとう」
そう言ってロイはアルが指差した方向へ歩いていった。

「びっくりしたね、ウィンリィ」
トントントン!
またもや木を叩く音がした。ウィンリィとアルが振り向くと顔色の悪い男が立っていた。
「今のは、ロイ・マスタング…?」
「そうです」
「私が…私の身体には…」男は喘ぐようにそうつぶやいた。
「おじさん大丈夫?」
アルが声をかけるが答えずに男はよろよろとロイの後を付いていった。

「…」
アルとウィンリィは無言で顔を見合わせる。
「今のって…もしかして…」
「爆弾魔?」
きゃぁぁぁぁ!!兄さ〜〜ん!!早く戻ってきて〜〜!!
山にアルとウィンリィの声が響きわたった。

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